認知症一人暮らし終了の父と遠距離介護の私

頑張りすぎない、周りのプロに頼る、自分を大切に、を忘れないようにしながら認知症一人暮らし父(要介護2)を遠距離介護中です。父のことは好きだけれど、時々背負い投げしたい時もある。でもやっぱり好き!後で読み返して笑うために書き溜めています。

娘で妻で妹で他人。

朝、父とアレクサでビデオ通話をした。
ベッドに寝転がって新聞を読む父に、「お父さーん」と呼びかけると、画面に映った私の顔を見て驚き、次いで「おお~!」と嬉しそうに答えてくれる。
ビデオ通話の開始は、大体いつもこんな感じだ。

父は、毎度儀式のごとく同じ会話を繰り返す。
「ここがどこだかわからんもんね」
「母さんどこいるんだ」

「家に今ひといないのか」
「俺いくつになったんだ」

「きょうだいはまだ生きてるんだっけ」
「ここどこだ」
「母さんはどこにいるのさ」
以下気が済むまでエンドレス。
四六時中一緒にいて質問シャワーを浴びているわけではないし、私もどちらかというと同じ事の繰り返しに安心を覚える性質なので、父からの同じ質問ループは大して苦ではない。
話している内に、父の思い出話につながっていくこともあって、父の昔話が好きな身としては聞いていて楽しい。

そんなこんなで、今回も3つ下の妹さんとの思い出話を楽しそうにしてくれた父から最後に一言。

「ところで、お前俺の3つ下だと今いくつさ?」

おっとお父様、私を下の妹さんだと思っていらっしゃる。
あなた88歳ですから、そうすると画面に映るわたくし85歳。美とは言わんが、魔女過ぎんか。
「やーお父さん、私は妹じゃないですね~この顔85歳には見えないでしょ~」
「そしたらあんた誰よ」
「私はね、あなたの娘の〇〇ですね」
「娘なの!そうかい!俺の子ども○○と△△といるわ」
「その○○ですね~」

父の認知症の症状は、ここ1、2年で進行した。
今自分がいる場所が分からない。家の住所が分からない。家族や親族の名前や関係性が分からない。
最初はたまに、その内少しずつ回数が増えた。話している内に段々わかってくることもあるが、分からないままで終わることもある。

私のことは、娘だったり、妻だったり、妹だったり、はたまた知らない誰かだったりする。
認知症とはそういうものだと思っているので、初めて娘ではない誰かだと思われた時も、そこまでショックではなかった気がする。
いや、娘ではない誰かだと思われている度に、多分それなりにじんわりダメージを受けているような気もするのだけれど、そのダメージが心の芯まで届いてしまわないのは、おそらく、父本人が「私が娘だと分からなかったこと」に対して割とあっけらかんとしているからだと思う。
父に娘だと認識されなくなることについては、やはりすぱっと割り切れるものではない。
それでも、
「娘か~、忘れちゃってもうどもならんね~」
「あはは~」
と二人して笑い飛ばせるおかげで、私も真正面から衝撃を受けずに、まあそういうもんだしねと思うことができている。

それよりも凄いと思うのが、私が娘や妻や妹ではなく「知らない誰か」の時も、父はにこにこフレンドリーで優しく、いつもと変わらない話おもしろおじいちゃんなことだ。
父は、相手によって態度を変えない。
私にも、ヘルパーさんにも、ケアマネさんにも、他の利用者の方にも、いつも丁寧な言葉遣いと態度、かつ隙あらばおちゃらけようとする。
いつも、今いる施設に対して「ここの人みんな親切で良い所だ」と感謝しているし、父の思い出話もお世話になった人たちへの感謝であふれている。
こういう父の人間性が、私は好きだ。

なので、まあ実年齢+43歳されたことは、今回は水に流そうと思う。
割りと根に持つタイプの娘より。

 

ぱっぱっぱーのぱー

先日、父は88歳になった。
仕事の都合で誕生日ジャストにはなかなか会えないが、その近辺で帰省し父に直接おめでとうを言うのが、私の年間スケジュールの1つになっている。

88歳、米寿である。
帰省初日、もうすぐ夕方という時刻に家に着き、玄関の郵便受けに入っていた「米寿のお祝い金渡しに来たけどいなかったから持ち帰るわこれ見たら連絡して」(要約)という役所からの書類を見つけ、即座に電話、閉庁前の役所に滑り込み表彰状と金一封を受け取り、そのまま父の施設に向かった。
ちなみに、後日保険会社からも「お祝い金振込んだよ米寿おめでとう」お手紙が来た。
節目の歳だとそんなイベントがあるんだなぁ、知らなかった。

さて、2ヶ月ぶりの父に、早速お祝い。
「お父さん、〇月〇日誕生日でしたね」
「今日何日さ、は~そうかい誕生日過ぎたね、いくつになったのさ82位か?」
「88歳になりましたよ、米寿だよお父さん」
ここで父、開いた両手をそれぞれ顔の左右に持ってきて、おちゃらけ顔で一言。
「米寿でない、ぱーぱーだ」

「俺が良いのは首から下さ、首から上はだめ~」
「もうね~ぼけぼけぼけ老人だわ~」
「記憶にありまっせ~ん」
など、自身の状態を「認知症」として認識しているのかはさておき、少なくとも覚えていられない自分について自覚している父には、いくつか持ちネタがある。
高卒で働き始め、決して美形の部類ではない父の言う「首から上」には、物忘れ以外にも偏差値と顔の造形の意味も込められているが、祖母とまだ幼かった叔父叔母を養うために働きながら勉強して資格を取り、母曰く「可愛い目をしている」父を私は好ましく思っているので、首から上がだめだとは全く思わないのだけれども。

それにしても、よくもまあこの一瞬で、88歳と父言うところの「ぼけ老人」の状態をかけた一言を思いつくもんだと感心する。
父は常日頃から冗談が好きでしょうもないことをよく言うのだけれど、そういう時のいたずら少年のような顔になった父を見るのが、私は好きだ。
子どもの頃もこんな感じでおちゃらけて家族を笑わせていたんだろうなと思う。
本人が全く湿らずあっけらかんと笑って言うので、私も「ぱーぱーかい」と気兼ねなく笑わせてもらった。

翌日は、午後から父と私とヘルパーさんでの外出予定があったので、せっかくだからとご提案いただき、いつも行っていた回転寿司屋さんでお寿司ランチをしてきた。
今年の1月末に父が実家を離れてから、もう一緒にお寿司を食べに行くことはないんだろうなと思っていたので、大好きなお寿司を食べている父をまた見られたのは、本当に嬉しかった。
役所からのお祝い金は、お寿司代として有難く使わせていただいた。

来年は89歳、ついに90歳に王手がかかる。
来年の父に何を言われるか、今からちょっと楽しみにしている。

ビバビバノンノンビバノンノン

父は、風呂が嫌いだ。

母が自宅にいた頃はしょっちゅう入浴をせっつかれていたのだが、その母が入院してからは「入らなくても死なない」論を掲げ、ケアマネさん、ヘルパーさん、私があれやこれや画策する風呂に入ろう作戦は、毎度無残に撃破されていた。
入浴の代わりに毎日体を拭いてはいるようだし、頭皮も体も匂わず、髪にフケや汚れが目立つということもない。シャツやパンツの下着類も、気になる程汚れている訳でもない。
父の手が届く範囲での清拭で、どの位清潔さが保たれているのかは分からないけれど、単純な面倒くささ、よそ様に裸を見せる恥ずかしさ、誰かに洗ってもらう申し訳なさなど、父の入浴拒否からにじむ気持ちも理解していたので、私としても無理強いする気はなかった。

そんなこんなで風呂に入らぬまま日々は過ぎ、2021年1月頭、拒否が続いていたデイサービスにたまたま参加した上に気まぐれ入浴をした奇跡の日以降、再び脱風呂を貫き続けること1年と半年強の2022年7月下旬。
2、3ヶ月に一度帰省する度、風呂の提案はするけれども当然のごとく断られるので、お湯を張った大きなたらいに父の足を浸け、膝から下、特に指の股や爪と指先の間を念入りに洗った後、爪切りを行うのが常になっていた。
今回の帰省も、風呂のお誘いは失敗するものと思っていたのだけれど、なぜかその日の父は、雑談からのお風呂どう?に、「入るか~」と答えたのである。

じゃあ足浴のたらい用意…えっなんて?風呂?ふ、えっ、ほんとに???
すっかりいつもの調子で足浴テンションだった私は軽くパニックになりながら、このチャンス逃してなるものかと「よし入ろう!わ~入ろう!背中流させて~」とわたわた父を風呂場に連れて行った。
とは言っても、浴槽に浸かってもらうのは難しく全身を洗うに留まったのだけれども、そもそも洗浄料で体を洗うこと自体久しくできていなかったので、大進歩だ。

あと2ヶ月で42歳となる2022年7月、ついに私は初めて父の背中を流した。
割と体格が良い父が座っただけでもう洗い場は満員で、開け放ったドアに背中を向ける父の後ろからTシャツ足裾まくりの私、お湯をかけ、洗浄料を泡立てたタオルで背中、左右の側面を洗い、剥がれ落ちた垢を一旦シャワーで流し、タオルを洗い、また背中と側面を擦り、父が飽きぬよう延々雑談をし続け、浴槽に移動して前面を洗い、流し、再び洗う。
こちとら人の体洗い素人、入浴介助を前提にしていない狭い風呂場で人一人丸ごと洗うのがあんなに大変だとは、思っていなかった。
いや、大変だろうなとは思っていたけれど、具体的にどの程度大変なのか身をもって知った。
全身洗い終わりぴかぴかの父の後ろで、娘、汗とお湯で顔も服もどろどろ。素人風呂介助、アンド夏、アンド部屋のクーラー壊れてる。というか、壊れてなくてもそもそも位置的に風呂場まで冷風は届かない。もう待ったなしどろどろ。
達成感も凄いが、ほぼ42歳筋肉なしの体には疲労も凄かった。
でも、父の背中を流すのは存外楽しく、ご機嫌で風呂を楽しんでくれた父の姿も嬉しかった。親孝行したい欲を、父に叶えてもらった気分だった。

そして今、自宅を離れ小多機の泊りにお世話になっている父は、あっさり脱風呂を取り下げ、毎度の入浴もしっかり堪能しているという。こどもの日には、菖蒲湯に浸かったらしい。奇跡的転換。やはりプロの方は凄い。

あの一回こっきりで、きっと私はもう父の背中を流すことはないのだろうなぁと思う。
たどたどしくはあったけれども、楽しい時間だった。
また機会が来た時は、父とわいわいおしゃべりしながらえっちらおっちら洗いたい。

紙パンツ、さるのおやつ、ふりかけ、あるいは父の愛。

大変、大変お久しぶりです。
お久しぶりの間に何があったか簡単に書きますと、今年1月、たまたま私の帰省中に父が転倒し、それ自体は擦り傷程度で済んだのですが、倒れたままなかなか起き上がれず固まってしまった父をえっちらおっちら抱き起しながら、『ついに来た、ここが潮時』と思いました。
という訳で、父はついに実家を離れ、新しいステージに入っております。

幸い頭は打たなかったのですが、病院に行く流れの中で、「今日は念のため入院します(嘘)」からの、そのまま小多機の泊りに移行。
父の中でも「転んだので、念のため病院で検査&入院」というのは納得感があったようで、なら仕方ないよね~のノリで、すんなり進みました。
「施設断固拒否、死ぬまで自宅、“いざ”が来たらその時は考える、でもやっぱり死ぬまで自宅」を貫き続ける父の今後をどうしたものか、延々ケアマネさんと悩み続けながら、毎日ヘルパーさんに来ていただいて本人希望の在宅を続けてきましたが、その“いざ”の場面で、こんなにあっさり物事が進むとは。
終の棲家にはできない所なので、この先父が最期までお世話になれる施設を探しながらにはなりますが、一旦落ち着いています。

少多機の泊りなのでスタッフさん達も今までと変わらず、おかげで父も早々に馴染んで、「ここの人みんな親切だし、仲間も楽しいし、ごはんおいしいし」とにこにこです。
父が楽しく過ごしていてくれることが嬉しく、また馴染みのスタッフさんが常にいてくださる環境なのが心強くて、私も安心です。

とこんな感じで、環境が大きく変わりました。
既に何度か帰省して父に会いに行っているのですが、会いに行く度、父の「せっかく遠いとこ来てくれたんだから何かあげたい」が発動します。
感謝を金品で返したいタイプの老人である父、私としては『しゃぼん玉』のスマおばあちゃんのように、手をぎゅっと握って「ありがとう、本当に」と言ってくれるだけで十分なのだけれども、何かあげるもの~と、棚やらカバンやらがさごそする姿もかわいいので、本人の良いようにしてもらっています。

さて、カバンから取り出した財布を私に渡し、「いくら入ってる?」とお目目キラキラで問うたは良いが、開けてみたらば50円玉が1枚。
そうね、ブラックホールに吸い込まれているのではと思うほど完璧になくしてしまうから、お金を直接父に渡すことはなくなったもんね、入ってないわな。
「なーにさー」とあきれて笑いながら更にカバンの中を探り、取り出した白く四角いものを「これなにさ」と広げてみたらば、紙パンツ(未使用)。
肩掛けカバンの中から、白さ輝くむき出しの紙パンツ。
「なんでこんなところに」と笑いながら、父はその紙パンツをくれました。くれるんだ。

またとある日は、サイドチェストの引き出しを開けて、「さるのおやつ」と書かれた薄茶色い固形物が入った箱とふりかけの袋をくれました。
父は覚えていませんでしたが、先日利用者のみなさんとサル山に行ったらしい。ふりかけは、いつのごはんだったのかなこれ。
さるのおやつは、万が一父が勘違いして口にするといけないので引き受けて、ふりかけは「今度使いなよ」と断ったのですが、「いいから持っていきなさい!」と何かあげたい気持ち強めの圧で言われたので、もらってきました、梅味。

父の何かあげたい気持ち自体が私は嬉しいのだけれど、毎回自分でも何か分からんものを渡してくる辺りが、適当で好きです。分からんけど、何かしら良いものなのだろうと思って渡してくれている。その気持ちは多分、父の愛なのだろうと思うのです。
であるならば、喜んでいただきましょう紙パンツでもさるのおやつでも。

また来月帰省しますが、今度は何が出てくるのかな。
ちょっと楽しみです。

気がつけば年末、蝶番はひっそりとその役目を終えた。

日課である父へのモーニングコールをしたら、ちょうどヘルパーさんが来て下さって、朝ごはんを食べ終えたところだった。
「電話鳴った途端にね、ヘルパーさんが「あっ娘さんだ」って言ったわ~」と、電話口から父の朗らかな声が聞こえ、今年をお互いの笑い声で締めくくれることが嬉しい。

昨年に引き続き、今年も世間の状況に翻弄され、介護帰省のスケジュールが土壇場で変更になったり、滞在中も緊張感がずっと続いたりしていたけれど、なんとか乗り切った。
頑張った、と思いたい。

そんな状況でも、86歳認知症独居の父が一人で生活できているのは、ケアマネさんとヘルパーさんの支援あってこそだ。
帰省の予定が飛んでしまい気を揉んでいる時も、「不安なことがあったら教えてください。代わりにできることはやりますから!」と親身になって下さり、本当に本当に感謝してもしきれない。

あと、おかげさまでようやく父に「外出時はマスク」が浸透した。
忘れるけれど習慣化するって面白いなぁと、父を見ながら思いつつ、この調子で入浴とデイサービスも習慣化してくれないだろうか。

父が「入浴からの解放」を宣言して、あと少しで1年が経つ。
まじか。
この1年、幾度となく私もケアマネさんもヘルパーさんも、父の入浴チャレンジを行っては挫折、行っては挫折。
元来の風呂嫌い、意志がかっちかち。凄い。
面倒くさいのもあるけれど、裸を人様(私含む)に見られるのが恥ずかしい気持ちも強いので、なかなか難しい。
恥ずかしい気持ちは私も十二分に分かるので、清潔さは保って欲しいが、父の気持ちにも配慮したい。

でもね、せめてパンツは取り替えて、父よ。

10年位前に読んだ森見登美彦さんの小説で、願いが叶うまでパンツを替えない大学生が「てきめんに病気になりました」と言うシーンの衝撃が未だ抜けず、「パンツはこまめに替えなければならない」という強迫観念が、私にはある。
普通に生活をしていたら、基本こまめに穿き替えるものだけれど、父がどの位の頻度で下着類を替えているのか、ちょっと謎なのだ。
ヘルパーさんに洗濯支援もお願いしているが、今年後半辺りから「洗濯するべきものが所定の位置(洗濯槽、あるいはその隣の洗濯カゴ)にない状態」が続いている。
洗濯物は所定の位置に、を忘れた父により、タンスからこの世のものとは思えぬ臭気と黄ばみを蓄えた、発酵界の王者みたいな下着が発見されたこともあるが、12月の帰省時にはそれも発見できなかった。
本当にパンツ、パンツの穿き替え大事だから父よ!!!!

今年は、今まで訪問と通所ばらばらだった介護事業所を、小規模多機能の事業所に一本化した年でもあった。
介護サービス費は跳ね上がったが、結果的には良い選択だったと思っている。

今まで訪問は1日1~2回週3日程度、デイには全く通えなくなっていたのが、1日2~3回週6日、相変わらずデイには通えていないけれど、ケアマネさんもヘルパーさんも看護師さんも、チームで父を支えて下さっているのが分かる。

また、頻繁に訪問して下さるので、機嫌の悪い日には「来る度にお金がかかるんでしょう!」「そうやって老人から巻き上げて!」と、憤慨して拒否することもあった父も、1年かけて受け入れ体制ができたようだ。
最近はヘルパーさんの訪問が楽しみなようで、ヘルパーさんから「来てくれて嬉しいと言われましたよ~」というお話を聞くと、私も嬉しい。
反面、それだけその他の時間は1人で寂しい気持ちが増してきているのかなとも思うので、私もできる限りアレクサで父とビデオ通話をしていきたい。

つらつらと今年1年を振り返りながら書きつつ、先程ヘルパーさんから「台所の棚の蝶番が外れました」と、ご連絡をいただいた。
家も父同様に年を取っていくものだから、なにかしら起こるよね。
そういえば、12月の帰省時にふと玄関の上の方を見たら、壁紙はがれててたまげたもの。
直そうと思って忘れていたことを、今思い出した。
扉ごと外れる心配はなさそうとの事だったので、次の帰省時までにDIYスキルを身につけなければ。

そんな今年最後の日。

皆さん、本当に1年間お疲れ様でした。
また来年も、本人の希望である自宅での生活を、少しでも気持ち良く一日でも長く続けてもらえるよう、かつ私自身無理しすぎず、父とのゆるゆる楽しい時間をつくっていければ嬉しいです。

おめでとう狩り

先日、41歳の誕生日を迎えた。

出不精、趣味なし、非社交的。
行動範囲も交友関係も非常に狭い私には、定番・突発含め、年間通しておよそイベントというものがない。
ひとつ歳を取る度に、特に何のドラマも起こらぬまま平坦に過ぎ去った1年間をぼんやり振り返るのだが、昨年からの1年間は、いつにも増して何もなかった。
なさ過ぎて、1年が過ぎた実感すらない。

誰に会うも、どこに行くも、何かを買うも、何ひとつ予定のない誕生日。
唯一あるのは、毎月の通院。
通院ついでに、気になっていたハンドマッサージに行ってみようかと思っていたのだが、その1週間前から手足の裏以外の全身に謎の発疹が出てまーあ痒いのなんのって、このまま耐えていると痒みで気が狂うなと思ったので、病院追加。

寂しすぎるマイバースデー。
しかし、そんな寂しさマックスの私にも、「誕生日おめでとう」の言葉はやってくる。
複数届いた、バースデーカードやメール。華やかなイラストや写真とともに、ハッピーバースデーの文字が踊る。
どれもこれも、これからの私の1年間が素敵なものになるよう、お祈りしてくれている。
そして、そのどれもこれも、お祈りし終わった後はこう続いていた。

「店頭またはオンラインショップで〇〇〇〇円以上お買い上げの方に、〇〇プレゼント!」
「ご注文時〇〇サービス!」
「特別クーポンをお届け!」
「お誕生月20%オフ!」

「お誕生日を迎えた特別なあなた」たる私は、その中から某ショップの特別クーポンをチョイスし、ちょうど切れそうだったいつもの基礎化粧品を購入した。

人間からの「おめでとう」が欲しい。しかし、待っていてもやってはこない。
ならば、自ら積極的に狩りに行こうではないか。

以下、父とのモーニングコール中の会話である。

「お父さんお父さん、カレンダーの横を見てください。今日は何月何日と書いてありますか?」
(実家のカレンダーの横には、今日の日付と曜日が巨大な文字で表示されたデジタル日めくりが掛けてある。)

「えーと、9月10日だね。なにさ」
本日は、私の誕生日です!」
「ほー!そうなの。オレはねぇ、〇月△日」
「うん、そうだね」
「そうかぁ誕生日かぁ、全然知らなかった。もうきょうだいの誕生日もわからないもね」
「うん、きょうだいじゃなくて、娘ですけどね」
「お母さんは□月◇日だわ」
「そうだね。で、今日は私の誕生日なんです」
「そうかぁ、オレはね、〇月△日。もう80なんぼも生きてるから、自分の誕生日も忘れそうだわ」
「もし忘れても、私が覚えてるから大丈夫だよ。でね、お父さん、今日は私の誕生日なんですよ」
「今日誕生日かい!オレはねぇ、昭和10年〇月△日。もう82か3か?」
「86になりましたよ」
「ええー!もうそんななるかい!?」
「特別大きな病気もしてないし、86でそれだけ元気なのは本当に有難いよねぇ」
「ほんとだー若い頃に無茶しなかったお陰だわ」
「そうだねぇ。でね、お父さん。今日は私の誕生日なんですよ」
「ほーそうなの!」
「それでね、」
「うん?」
「誕生日の人に、なんか言うことあるでしょ?」
「誕生日かぁ、兄はまだ生きてるなぁ90超えたかなぁ」
「お父さんの家系は、皆長生きだよねぇ。でさお父さん、誕生日の私に言うことは?」
「おめでとう」

言ったーーーーーーーー!!!!!
やっと言ったーーーーーーーーーーー!!!!!!
「オレの誕生日」ループに入った時、もうだめかと思ったわーーーーー!!!!!!

「20歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう、ダブルスコアだけどね」
「ほっほっ」

父は元々冗談を言うのが好きな人なのだが、もはやこの手の台詞が冗談なのか本気なのかちょっと判断しかねるので、時々ヒヤッとする。
今回は、会話の雰囲気から冗談のようだ。

無事むりくり父からおめでとうをもぎ取り、任務終了。
生の「おめでとう」をもらうのは、やはり嬉しい。例え、言わせた感100%だとしても。
朝ごはんを摂ったかどうか、今何をしていたのか、テレビを見ていたと返ってくればどんな番組を見ているのか、部屋は暑かったり寒かったりしないか、などいつもの会話ルーティンも終わり、またねと電話を切ろうとした時、最後に父がもう一言添えた。

「ハッピーバースデー」

電話を切った後もその一言がじんわりしみて、今回の会話を録音しておけば良かったと、物凄くものすごく後悔した。

タンスの中の発酵ワンダーランド。

3月の帰省から4ヶ月後の、7月帰省時のことだ。

帰省初日に父のタンスを開けた途端、解放されし引き出しから飛び出して、私の鼻腔を颯爽と駆け上がってきたものがあった。
瞬間、私の脳内で「あかん」ランプがパッパパッパと明滅する。

臭い。

ただただシンプルに、めちゃくちゃ臭い。

もっと具体的に言うならば、日数をかけて熟成された汗と皮脂の混じった臭いが、たった今開けたこの引き出しのどこかから、強烈に存在感をアピールしていた。

臭気の元を、突き止めなければならない。

ソファに寝っ転がり、大好きな時代劇シリーズのCS放送を楽しんでいる父の後ろで、トリュフ豚さながらに鼻面を引き出しに突っ込み嗅ぎ回る、四十路の娘。
あっちくんくん、こっちくんくん、臭気の強くなる方向にどんどん鼻を移動していき、そしてついに引き出しのやや奥まったところから、真っ黄色に変色したよれよれのアンダーシャツを発見したのだった。

わぁ、買った時はきっと輝くばかりに白かったんだろうなぁこれ、もう全く面影ないけど。
衣類ってこんなに黄ばむんだなぁ。
そして、信じられないほど臭いわこれ。これだけ臭ければ引き出しの覇権を握るわ、ほんっと臭い。

父は風呂が嫌いだ。
最後に入浴したのは、今年の1月。
これまた行きたがらないデイサービスにたまたま気乗りして通所、入浴まで済ませた奇跡の1日があったのだ。
それ以来、一度も風呂もシャワーも使用していない。
にもかかわらず、どうしてか父は臭わない。
帰省する度、再会を喜ぶハグをしながら、ゼロ距離でフケや頭皮の臭い、肌のべたつきや体臭等をチェックしているのだが、多少よれよれした匂いはしても、フケが溜まっていたり、不潔な臭気を感じたことは未だにないのだ。

風呂に入らない代わりに、自分でこまめに体は拭いているのだが、それにしたって石鹸を使うでもなし、しかも足が悪くあまりかがめないので、膝より下は恐らくほぼ拭けてはいない。
私がいる間にと思い自宅での入浴を促しても、これも「人に会う用事ないからいいわ~」と、やわらか声ではっきりノーサンキュー。
今のところは父の清拭の力を信じ、膝から下は帰省時に足の爪を切る際、マッサージもかねてゆっくり拭いている。

「無入浴父臭くならない不思議」については、ケアマネさんも首を傾げている。
しかし、臭う臭わないは別としてやはり衛生上宜しくないので、せめて月1でも良いから入浴もしくはシャワーを浴びて欲しいのだが、通所での入浴介助も、訪問での入浴介助も、父は相変わらず断固拒否の構えだ。
こちらに関しては、引き続き要検討事項となっている。

さて、話を、我が右手に握られし黄ばみまくった下着に戻したい。

ヘルパーさんには洗濯支援もお願いしており、使用後父が直接洗濯槽、もしくは洗濯機横のカゴに入れた衣類等を、洗って干していただいている。
また、私も帰省時には必ず、父の体臭チェックの後続けて洗濯槽やカゴに腕を突っ込み顔を突っ込み、入っている洗濯待ちの下着類に黄色や茶色のシミがついていないか、きつい臭いがしていないかを確認してから、洗濯機を回している。

今回も、タンスを開けるより前に洗濯槽等の確認をしたのだが、特に問題がなかった。
父は、時折洗濯槽を食品の貯蔵庫としても使用するが、秘蔵の菓子パンも入ってはいなかった。
なので安心してしまっていたのだが、前回帰省した3月からの4ヶ月間に、脱いだ下着を洗濯槽ではなくタンスにダイレクトインという新しいパターンを、父は生み出したようだ。

洗濯については、正直少し気になることがあった。
毎月、ケアマネさんに日々の介護内容を記入いただいたレポートを頂戴しているのだが、少し前から洗濯支援の文字が出てこなくなっていたのだ。
7月の帰省時にお話を伺おうと思ってはいたのだが、どうもこの黄ばみまくった下着と関係がありそうだ。

そこで、ケアマネさんに、父のスキルに「タンス内での使用後下着の発酵」が追加されたこと、洗濯槽やカゴの中の洗濯物が少ないこと、レポートに洗濯支援の文字が最近出てこない理由を知りたいとお伝えしたところ、最近は父に洗濯の声がけをしても、「今日は結構です」「自分でやりました」と返され続けており、実際洗濯槽やカゴの中に入っている洗濯物の量も、数枚程度しかないとのことだった。

ということは。
これはまだあるな、父が溜めた発酵物が。
ケアマネさんと私の意見は一致し、私はまだ見つかっていない使用後下着の捜索に取りかかった。

今回発酵物が発見されたタンスの他の引き出し、部屋の隅にひっそり置いてある椅子に重ねられたクッションとクッションの間、すっかりハンガー掛けと化したルームランナーの、レーンの上に被されたタオルケットの下。
ルームランナーのバーに引っかけている綺麗な衣類達の間。

出てくる出てくる、3月にはなかった筈の黄ばんだ下着たち。
どれもこれも、気持ち良い位清々しく黄色い&臭い。
ケアマネさん、最近要洗濯の衣類が少なかった謎が解けましたよ!
ひとまず心の中でお伝えしながら、私は黄色い発酵物を片っ端からゴミ袋に突っ込んだ。
そして、救済可能な衣類についてはまとめて洗濯し、物干し竿に秩父横瀬川の鯉のぼりのごとく提げまくった。

いつか父も、尿や便で汚れてしまった下着をタンスに隠す日が来るかもしれない。
父の遠距離介護において、常に心の中で覚悟してきたつもりではいる。
その「いつか」が、ついに始まったのではないか。タンスを開けて臭気を察知した瞬間、その気持ちが万年鼻づまりの私をトリュフ豚にもさせた。
今回は汗と皮脂で済んだが、覚悟をしたつもりでいても、その時に遭遇したら、きっと私はショックを受けるだろう。
そして、それをタンスに隠す時の父の気持ちを思うとまたつらい。

それでも父は、生活の色んな場面をケアマネさんやヘルパーさんに助けていただきながら、本人の願う「死ぬまで在宅」を続けている。
遠距離介護の私にできることは、父の「死ぬまで在宅」希望を、現実問題と折り合いをつけつつ、できうる限りで最大限叶えられるようサポートすることだ。

改めて、父に何ができるのか考えていきたい。
すっかり乾いた物干し竿の鯉のぼりたちを、次会う時もその白さを忘れずにいてくれたまえと願いながら、タンスに仕舞った。