認知症一人暮らし終了の父と遠距離介護の私

頑張りすぎない、周りのプロに頼る、自分を大切に、を忘れないようにしながら認知症一人暮らし父(要介護2)を遠距離介護中です。父のことは好きだけれど、時々背負い投げしたい時もある。でもやっぱり好き!後で読み返して笑うために書き溜めています。

朝8時、眼下にファラオ

朝8時、自宅2階の遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋のベッドで横たわる父を見下ろしながら、私の脳裏にはこの一言だけが強烈に明滅していた。
「あかん」。

 

私が今生活している東京と比べて、「寒いね」の言葉の重みが段違いの地元北海道。この間まで割と穏やかだったのに、突然の寒波と積雪に、ネットの天気予報で「無慈悲」と表現された、12月半ば。
私は、数ヵ月に一度の帰省ペースで、認知症一人暮らしの父(85歳)の遠距離介護をしている。
いつもならとっくに起きて居間に降りてくる時間なのに、いっかな降りてこない父の様子を見に来たところだった。

 

見下ろす先には、事前に用意しておいた暖かい寝具を取り払い、30年位前から家にあるへなへなの膝掛けを何枚か体に掛けただけの父。
幸い、室内は暖かい。冬はラクトよりミルクよりクリームだよねと、無慈悲な外を眺めながらリッチなアイスをのほほんと食べられる位には、平和な温度だ。
それでも、仰向けで両手もきっちり組み、穏やかに、あまりにも穏やかに眠る姿を見た途端わき起こる、「ねえ、これ「眠」の前に「永」ってついてない?」という激しい動揺。
と共に、脳裏にビッカンビッカン光り輝く「あかん」のネオン。

動揺を隠すように遮光カーテンを力の限りジャッと開けたら、父の目もぱっかり開いた。
「永」じゃない方の眠だった。父に、新しい朝がやってきた。

 

これが幼子だったら、健やかな成長を感じて心温まるところ、高齢の親の穏やかな寝姿というのは、なにゆえあんなにも心臓に悪いのか。
ただでさえ、単純に年のせいなのか進みゆく認知症の影響か、年々父はとてもさっぱりした顔つきになっていくので、ともすれば穏やかなんだか無なんだか判断がつかない。
あんまりいびきをかいていてもそれはそれで心配なのだけれど、なんかこう、ドキーッ!としない方法が欲しい。

 

微風でくるくる回る小さい小さい風車を、父の鼻の穴の近くに添えたいと思いながら、私は努めて明るく声をかけた。
「おはようお父さん、良い朝だよ」。