認知症一人暮らし終了の父と遠距離介護の私

頑張りすぎない、周りのプロに頼る、自分を大切に、を忘れないようにしながら認知症一人暮らし父(要介護2)を遠距離介護中です。父のことは好きだけれど、時々背負い投げしたい時もある。でもやっぱり好き!後で読み返して笑うために書き溜めています。

時計たちのニルヴァーナ

父の寝室に、時計が3つ。
全て、ベッドのすぐ横にある机の上に、眠る父を拝むような配置で、それぞれ少しずつ距離を空けながら横並びに置かれている。

デジタル時計もあればアナログ時計もある。そのうちのひとつは、小学生時代に私が愛用していたファンシーなキャラクターものだ。午後の陽射しに照らされて、鮮やかなグリーンが目にまぶしい。
正面をベッドに向けて配置された時計たち。さながら、涅槃に入ったお釈迦様の周りを取り囲む動物たちのようだ。
ただでさえ最近の父の寝顔は安らかで、見ていると不安になり、裂いたティッシュを鼻先に垂らして生存確認したくなる程だというのに、父の寝室における安らか度が更に増してしまっている。

各所各所にやたらめったら時計を置きたがった母の影響により、実家には時計が多い。
玄関フードのテーブルにひとつ、玄関の靴箱の上にひとつ。
居間の電話台の上にひとつ、少し離れて壁掛け、反対側の壁にもひとつ、棚の上には、中学生の頃私が自ら購入したドラえもんの大きな目覚まし時計。

この時計、時間になるとどんちゃかミュージックとともにドラえもんの声で「あっさでっすあっさでっすあっさでっすよっ!プー!(ラッパのような音)あっさでっすあっさでっすおっきまっしょう!プピー!!あっさでっすあっさでっす・・・」と起こしてくれる、たいそうにぎやかな一品だ。
途中で壊れ、ドラえもんの声が裏返ったりガガガガッという音が混ざったりとなかなかホラーな目覚めを促すようになり、怖くなって電池を引っこ抜いたまま長年私の部屋の隅で埃をかぶっていたのだが、沈黙の彼は母に救われ、明るい場所に安住の地を得た。

まだまだある。食器棚の上にひとつ、食卓の上にふたつ、台所の窓辺にひとつ、風呂場前の洗面所にひとつ、仏間とトイレには、それぞれ壁掛けと置時計ひとつずつ。

少し数えただけでも、この調子である。
母は、別段時間に厳しかったわけでも、一分一秒せっつかれて生きている人でもなかった。
ただ、とても心配性だったので、とにかくどこにいても時計が目に入り時間が分かることで、安心感を得ていたのではないかと思う。

そんな時計溢れる我が家が、母が入院した今どうなっているかなど、わざわざ書くまでもない。
もう墓場。
部屋のそこここで、それぞれ最期の時間で時を止めた時計たちが死んでいる。
メインで使用している時計以外のものが電池切れで動かなくなっても、父は電池交換をしない。
そもそも、「見よう」という気のないものは例え目の前に突き出されても意識の中に入っていかない人なので、いつも見る壁掛け時計以外は、存在自体ないものとなっている可能性も大いにある。

そして私も、父が見ていない時計の電池を替えるのもなぁと、手つかずできてしまった。

右見れば7時13分、左見れば21時51分、振り向けば15時・・・長針が外れており何分かは不明。
かすかに生きているものもあるが、こと切れる寸前で秒針が数秒に一度しか動かず、時刻が全く正確ではない。
死に絶えた時計たちと、今にも命の灯火が消えかかっている時計たち。
気にしだすと、これがなかなか精神的に良くない。家中時の動かない時計たちに包囲されていることが、シンプルに怖い。
あと、どの時刻が正しいんだか一瞬分からなくなるので、大変不便。

3月に帰省した際、そんな時計たちを少し片づけた。いっぺんに処分して、父が「時計がない時計がない」となっても困るので、今後も父の様子を見ながら少しずつ減らしていく予定だ。

さて、父の寝室の時計に話を戻したい。
3つもいらないのは明らかである。そもそも、12月に帰省した時には、時計はひとつも置いていなかったように思う。
ファンシー時計はともかく、他のふたつはどこから持ってきたんだろう。この家には、あとどの位眠っている時計があるのか・・・

しかも、よく見ると3つとも全部死んでいた。待って、涅槃入りしてるのは時計の方なの?
時計としての用をなしていない時計を、眠る己に向けて3つ配置しているその意図とは。何に使っているのですか父よ。

という訳で、机に置くのは、その内の一番きれいなデジタル時計ひとつに絞ることにした。
電池交換をすべくふたを開けると、2本必要な乾電池の内1本が抜かれている。
若干不思議に思いながら、私は新しい単三電池2本を装着し、時計を蘇生させた。

そして翌朝午前6時。父の寝室から聞こえてきたけたたましいアラーム音。
どうやら、機能復活した時計にはアラームが設定されていたようだ。
慌てて寝室に駆け寄ると、何が起こったのか分からない父が、半ば混乱しながら時計の電池を抜こうとしていたところだった。

これだわーーーーーー!!!
父を囲む時計が増えてたの、多分これだわーーーーーー!!!!!

父は、電化製品で何か気になることが起きた際、問題を見極めて対処するのではなく、電気供給を止めて元から絶つという、「全てなかったことに方式」を採用している。
お陰で、レンジフードのお手入れサインの点滅を消すために台所のブレーカーごと落とし、後日冷凍庫を開けたヘルパーさんが悲鳴を上げたり、電話のコードを繋いでいるタコ足の電源ランプが気になり、タコ足のコードをコンセントから抜き、音信不通になって私の胃がぎゅうぎゅう絞られたりする。
しかし、こういった問題について、ケアマネさんもヘルパーさんも都度迅速に対応して下さるので、実際的にも私のメンタル的にも助かっている。
本当に本当に、ケアマネさんヘルパーさんの存在は大きい。

改めて、昨日外した他の2つの時計を確かめたら、2つとも電池が入っていなかった。
恐らく、止まるなり不具合なり今回のような突然のアラームなりで、父が電池を外し、存在自体を意識から消し去ったのだろう。

寝ぼけてふにゃふにゃの声で「なん、なんこれ、どした??」とあわあわしている父から時計を受け取り、「ごめんね~昨日電池取り替えた時、変なとこ押しちゃったのかも」と言いながら、アラーム機能をオフ。
我が家の時計削減計画とともに、時計に限らず電池で動くものについては、まだ動いていても今後はこまめに電池を入れ替えていこうと、密かに誓った。